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中国の能書家
和本『大全童子往来』の巻頭にある「和漢名筆略伝」を紹介します。日本と中国の能書家が6人ずつ紹介されていますが、このページでは中国の能書家を紹介します。
衛夫人(衛鑠)
衛夫人(えいふじん)晋・泰始8年(272)〜東晋・永和5年(349)
書家。名は鑠(しやく)。字は茂猗(もい)。
書は鍾〓(しようよう)を学び、隷書をよくしたという。また、筆法の名家として知られ、王羲之は幼少のとき彼女に師事したと伝えられる。
【詞書】
衛夫人 衛夫人、字ハ茂猗、汝陰太守李短(李矩の誤)が妻、中書郎充といふ人の母なり、筆法を蔡〓が女蔡〓に授り、正行篆隷を善せり、曽て筆陣の図を著して筆法を論ぜり、当時の能書この門より出る者多し、其書を評する者、花を挿む舞姫の低昂芙蓉のごとしと称嘆せりとぞ、
王羲之
王羲之(おうぎし)晋・泰安2年(303)?〜東晋・升平5年(361)?諸説あり
政治家・書家。字は逸少(いっしょう)。右軍将軍となったことから世に王右軍(おうゆうぐん)とも呼ばれる。
実用的な書体を芸術的な書体にまで完成させたことで「書聖(しょせい)」と呼ばれる。
日本にも王羲之の書法が伝来し、和様書道にも大きな影響を与えた。
【詞書】
王羲之 王羲之、字ハ逸少、王曠が子なり、筆法を衛夫人に習ひて、名を天下にあらハす、官ハ右軍将軍、会稽山陰の蘭亭に記をつくり、世にきこへ高、黄庭経を書訖るとき、誰ともなく空中より感じ讃しとなり、その筆勢を拝する者飄として、浮雲の如く、矯として驚龍の如しといへり、
欧陽詢
欧陽詢(おうようじゅん)陳・永定元年(557)〜唐・貞観15年(641)
儒家・書家。字は信本(しんぽん)。
特に楷書の評価が高く、初唐の三大家あるいは楷書の四大家の一人として数えられている。
【詞書】
欧陽詢 欧陽詢、字は信木(信本の誤)、博識多才にして、書法に絶妙なり、唐の高祖武徳年中、開元通宝の銭を鋳さしめたまふ、則ち欧陽詢に詔りあつて、其銭の文を書しめ玉へり、その筆勢自得の神妙間然する所なく、千歳のいまにいたつて、此銭往々世間に残れり、宝とすべし、
唐太宗(李世民)
太宗 李世民(たいそう りせいみん)随・開皇18年(598)〜唐・貞観23年(649)
中国、唐朝の第2代皇帝(在位626〜649)。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上有数の名君として知られる。
太宗は文化を愛好し、書家としても名高く、特に王羲之の書を好んだ。
【詞書】
唐太宗 唐の太宗、名ハ世民、高祖李淵の次子也、能書のきこへ天下に轟き、貞観十四年真草にて屏風に古文辞を書玉ひ、群臣に示し玉ふ、其筆力遒剄にして、絶妙及ぶべきにあらず、又曽て筆法・指意・筆意三説を作つて学者に教へ玉へり、唐朝帝王の中にての冠たり、此余帝王にて梁武帝・宋高宗の両王を能書とす、
文徴明
文徴明(ぶんちょうめい)明・成化6年(1470)〜嘉靖38年(1559)
文人・書画家。初名は璧(へき)だったが字をもって徴明とした。字は徴明だったが名としたため徴仲(ちょうちゅう)と改めた。号は衡山・衡山居士・停雲生。文衡山とも呼ばれ、官名から文待詔とも称された。
文人として詩書画に巧みで三絶と称され、特に画においては明代四大家に加えられた。
【詞書】
文徴明 文徴明、字ハ徴仲といひ、又衡山と号す、明朝の人にして書画ともに能す、世に其きこへ高し、或とき此人の画をにせて書たるを持来て、賛辞・名印を求るものありに、則ちかき名印をおしてあたへけり、人何故かゝハし給ふぞと問けれバ、凡書画を求るハ富たる者なり、売者ハ貧ゆへ此書画を売ざれバ飢渇の憂にも至るべし、若我一時の名をなさんとて惜まば、其人困窮の憂を受もの也、我是を顧ざるに忍ずといへり、