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日本の能書家(三筆と三蹟)
和本『大全童子往来』の巻頭にある「和漢名筆略伝」を紹介します。日本と中国の能書家が6人ずつ紹介されていますが、このページでは日本の能書家を紹介します。
三筆とは空海と嵯峨天皇と橘逸勢の3人で、三蹟とは小野道風と藤原佐理と藤原行成の3人です。
空海
空海(くうかい)宝亀5年(774)〜承和2年(835)
平安時代の僧侶。真言宗の開祖。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお(まな)。
三筆の一人。「弘法にも筆の誤り」のことわざでも有名。
最澄や橘逸勢らと共に入唐し、中国より真言密教をもたらす。
【詞書】
空海 空海ハ讃州多度郡屏風浦佐伯直氏の子なり、幼より才智人に超、二十歳にして出家す、遣唐使に随て入唐し、留学すること三年なり、ある時流水に倚て居るに、童子一人来り流水に書んことをのぞむ、空海水上に詩文を書て乱れず、童子も共に龍の字を書り、空海のいわく、何ぞ右之点を打さるやとて、点をくわへたまへば、龍と作て飛去、童子たちまち空に上りて、文殊となり去しとなん、
神野親王(嵯峨天皇)
嵯峨天皇(さがてんのう)延暦5年(786)〜承和9年(842)
平安時代の第52代天皇。諱は神野(かみの)。桓武(かんむ)天皇の皇子。
三筆の一人。
自ら漢詩文や書道をよくし、彼の在世中は中国風の文化が栄えた。
【詞書】
神野親王 人皇五十二代嵯峨天皇の御諱を神野親王と申し奉る、平城帝同母の御弟也、常に文藻を好ミ玉ひ、筆道に妙を得玉ふ、弘仁九年夏四月、殿閣諸門の額を書改らる、北門の額を御宸筆にて遊しけるが、俊剄精妙凡ならず、自然と大度の筆勢あらハる、誠にめでたき能書にましましける、
橘逸勢
橘逸勢(たちばなのはやなり)延暦元年(782)〜承和9(842)
平安時代の貴族・書家。官位は従五位下・但馬権守、死後に従四位下を追贈される。
三筆の一人。
最澄・空海らとともに入唐し書を柳宗元に学ぶ。能書として知られ、在唐中も「橘秀才」と賞賛された。
【詞書】
橘逸勢 橘逸勢ハ右中弁入居の子なり、才智衆にこへ、殊さら書道に妙を得たり、嵯峨天皇勅して、宮門の額を書しめ玉ふ、延暦の季、聘唐使の入唐に随ひて、顔真卿に会り、卿その芸を賛美し、筆道の妙訣を伝ふ、唐土の人等橘秀才と呼しとなん、則ち日本三筆の其一人なり、
小野道風
小野道風(おののみちかぜ・おののとうふう)寛平6年(894)〜康保3年(967)
平安時代の貴族・書家。官位は正四位下・内蔵頭。
三蹟の一人。彼の書は後世「野跡(やせき)」と称された。
能書家として知られ、中国的な書風を改め、和様書道の基礎を築いた人物と評されている。
【詞書】
小野道風 正四位上杢頭道風朝臣ハ寛平五年に生る、則ち小野葛緒の子なり、学才卓越し能書のきこへ高く、日本三蹟の其一人なり、延喜の帝道風に勅して鳳闕の賢聖の障子にその姓名を尽しめ給へり、其妙天下に暉けり、
佐理卿(藤原佐理)
藤原佐理(ふじわらのすけまさ・ふじわらのさり)天慶7年(944)〜長徳4年(998)
平安時代の公卿・能書家。官位は正三位・参議。
三蹟の一人。彼の書は後世「佐跡(させき)」と称された。
草書の第一人者としての評価が高い。
【詞書】
佐理卿 藤原佐理卿ハ左近少将敦敏の長子也、太宰大弐の任はてゝ、鎮西より京に帰るのとき、伊予の国の泊りにて風波あしく、舟をいだすことあたハず、その夜三嶋明神額を書しめんとて留るよしを見たり、則ち神前にて額を書て鳥居にうたせけれバ、忽ち順風になりて恙なく帰京ありしとなり、是明神佐理卿の能書を慕ひ玉ふが故なり、
行成卿(藤原行成)
藤原行成(ふじわらのゆきなり・ふじわらのこうぜい)天禄3年(972)〜万寿4(1028)
平安時代の廷臣・能書家。官位は正二位・権大納言。
三蹟の一人。彼の書は後世「権蹟(ごんせき)」と称された。
書道世尊寺流の祖。
【詞書】
行成卿 大納言藤原行成卿ハ謙徳公(藤原伊尹)の孫、義孝の男なり、入木道の太祖にして、時の人草聖といふ、未だ殿上人にておはせしとき、扇あハせありけるに、人々ハ珠玉をかざり金銀をちりばめ、我おとらじといとなミけるに、此卿ハ黒ぬりの扇に、楽府の要文を真草行にうち交て書て出されければ、これにまさりたるハなしとなん、すなハち三蹟の一人なり、